最近、近所の電気店に行って「4Kテレビ」のデモ映像を見てきました。
1番違うと感じた所は、「4Kテレビの映像は、空気感が感じられるほどに高繊細である」という事で、今後のアニメなどの映像制作手法を少し考え直さないといけないなぁと感じた所で、「空気感の違いからの深い感情表現が可能」というポイントです。
例えば、今までのテレビだと、「霧のような細かい点の集合体」は、あまり区別できなかったので、「朝もやと、霧の違い」などの「空気感の違い」の表現はできなかったのですが、「爽やかな、まだ空気が澄んでいる時の朝もやの中を歩いているシーン」と、「霧でよく見えない不安感のあるシーン」の差まで表現できるので、4K、8Kテレビ以降の映像作家は、「さらに、多くの表現手法を得た」事になります。
自分は、初代ガンダム、初代マクロスの世代なのですが、あの当時のように「伝説となる」レベルの活気あった昔の時代を、再び、「4K、8K映像時代の幕開け」で、あの活気が再現できるのではないか?と期待を膨らませているわけですが、今現在、あの時代の活気が無くなってしまった背景には、「表現の自由」の規制が強くなってしまった事です。
あの活気のあった昔のテレビや映像の時代には、もっと「表現の自由」が、きちんとあって、「表現の幅が広かったので、もっと映像や感情表現などに深みを出せた」これが、最近の「表現の自由規制」によって、「表現の幅が大幅に狭くなってしまったので、”心に残る伝説級の作品”が、ほとんど作る事が不可能になってしまった事です。
さすがに、昭和の時代の「まいっちんぐマチコ先生」をやれとは言いませんが、昔の活気あった映像の時代の「表現の幅が広かったので、もっと映像や感情表現などに深みを出せた」所の「表現の自由」の権利の獲得まではしっかりとやっておかないと、「4K、8Kテレビの映像表現の時代は来ない」で、昔のような、「伝説級」の作品も作る事が不可能だという「技術倒れ」のような「宝の持ち腐れ」のような意味の無い時代になってしまいます。
技術だけ開発しても、関連の「表現の自由」などのきちんとした獲得などの全体の事まで完成しておかないと、「4K、8Kテレビ」は、うまくいかないという話です。
実際の所、当時、「まいっちんぐマチコ先生」のようなアニメが作られた背景は、テレビ局の「ネタ切れ」でした。
テレビという技術が作られて普及したのは、戦後からですが、テレビ初期の頃は、そもそも番組が無いので、いろいろと数を揃えないといけないが、ノウハウもない。
アニメの場合には、とりあえず、児童向きという事で、「世界の童話」を集めた「世界名作劇場」のようなものを作っていましたが、それでも限界があるし、「オリジナリティ溢れるもの」を自分達でも作ってみようという事で、「ロボットもの」とか、「スポ根(スポーツ+根性)もの」とか、いろいろ作り出したわけです。
ネタが切れれば、新しい「〜もの」を考えて加えていくような感じだったので、その中の1つに、「お色気もの」というジャンルが加わったという話だったのです。
そんな中で作られた、「じゃあ、全部のジャンル入りの、てんこ盛りアニメを作ってやろう」という意欲作で作られたアニメが、ガイナックスが、1988年に作ったアニメの「トップをねらえ!」でした。
「トップをねらえ!」には、当時はやっていたアニメの「ロボットもの」、「戦艦もの」、「スポ根(スポーツ+根性)もの」、「お色気もの」、「1980年代萌え系」、「熱血もの」、「友情もの」、「努力、根性、勇気もの」、「ハードSFもの」、「科学もの」、「スペクタクルもの(意味も無く壮大なもの)」などありとあらゆる要素を、てんこ盛りにしたアニメで、キャッチフレーズは「炎の熱血友情ハードSF宇宙科学勇気根性努力セクシー無敵ロボットスペクタクル大河ロマン!!!!!」だったわけです。
「大河ロマン」は、さすがに入っていないんじゃないかと思いますが、それ以外の要素は、本当に、てんこ盛りで入っています。
OVAの「トップをねらえ!」のストーリー構成自体は、OVAは、「6話」で終わっていますが、実際には、テレビアニメ用のもっと話数の多い構成のあらすじのストーリーはあって、プレイステーション2版のゲームの時に語られていたので、もったいない感じもするので、現代の最先端技術で、本来の話数で復活させてもいいのではないかと思います。
それで、昔のアニメには、「熱血もの」のジャンルがあったので、「無駄に熱いアニメ」が多かったので、最近、「僕のヒーローアカデミア」、「俺、ツインテールになります。」、「健全ロボ ダイミダラー」などという無駄に熱いアニメがひさびさに出たので、懐かしく感じたわけです。
ここでわかりづらいのが、「1980年代萌え系」というジャンルですが、実際には、現在の「萌え」という文化のはしりとなったアニメの時代があって、それが、「1980年代萌え系」というジャンルで、今の「萌え」系とは少し違います。
「1980年代萌え系」というジャンルは、「萌え」文化のはしりで、「ガルフォース」、「ダーティペア」、「トップをねらえ!」、「プロジェクトA子」、「タイムギャル」などが出始めた時期で、「思春期位の若い女性キャラクターが、近未来的な、体にピッタリしたようなエロコスチュームを着て活躍する、少女冒険活劇」という感じのジャンルでしたが、OVAが多かった事もあって、一時のジャンルで、その後に、あまり見られなくなってしまったので、「1980年代萌え系」というジャンルで1度終わって、現代に、「ラノベ」文化で、ごく普通に、「萌え」系ジャンルが、別の所から再復活したような感じです。
「1980年代萌え系」時代のアニメは、特に、キャラクターの体の描き方が、実際の人体に近かったので、当時の「近未来的な、体にピッタリしたようなコスチュームを着て活躍する少女達」の萌え系の雰囲気は、今よりも、もっとエロっぽい感じなのが、「1980年代萌え系」の特徴です。(ゲームだと、「タイムギャル」など)
「ガルフォース」なんかは、今の技術で作ったら、戦艦とかは、3DCGで、けっこう凄い事ができそうです。
(「表現の自由」のライン分けは、「美術に徹する」べき)
どうして、「1980年代萌え系」と、現在の「萌え系」を分けて考えるのか?というと、きちんとした理由があって、できた原因が違うからです。
「1980年代萌え系」ができた原因は、高度経済成長期の真っただ中だったので、自由に好き放題作れたので、それが理由で、好きなイメージで自由に作ったのが、「1980年代萌え系」です。
現在の「萌え系」が作られるようになった原因は、「表現の自由」の方のけっこう暗い話であって、この後の時代に、「表現の規制」が大幅に入る事になりました。(特に、昭和の時代の「まいっちんぐマチコ先生」時代には自由に表現ができた乳首の表現の強制的な削除など。個人的には、軍国主義的なやり方には反対です)
この「表現の大幅な規制」の後に困ったのは、少年まんがなどの男性を相手に商売をしている人達でしたが、「男の子がドキドキするシーン」を大幅に削除したら、そんな物は売れなくなってしまうし、イスラム教のように、「女性には布を被せてしまえ」もよくない。
1度、「表現の自由」に対して、軍国主義のようなものに屈してしまうと、「最終的に、人間は、針金のような細い線で手足胴体を描いて、頭の丸を付けるだけしか認めない」という所にまで行き着くのが、ディストピア型の管理社会の行き着く先で、そちらの方が不健康であるし、「人の心も心情も、情緒も伝える事ができなくなってしまって、ディストピア型の管理社会で、針金のようにしか人間を描いてはいけなくなった社会では、”人間は物のようにしか扱われなくなります”」
要するに、憲法で保障されている「表現の自由を守る」という話は、「きちんと、人の心情、温もり、情緒などの全ての状態や感情を、きちんと表現できる保障をする」事で、作家や、クリエイター側が、「表現したかったイメージ」を完全に、きちんと伝えられる環境を整えるという意味で、とても大事で重要な事なのです。
自分自身は、当時の「表現の自由」を議論していた人達が、「乳首の表現の禁止」という意味や根拠の無い所にラインを引いた意味も、わけもわからないのですが、現在のように、「マネキンのような乳首の無い表現の方が、人間らしくなく気持ち悪い。人の温もりも伝える事ができない」ので、むしろ良くないものであると考えています。(昭和の世代の自分には、「マネキンのような乳首の無い表現」は、とても気持ち悪くて、とても違和感があります。自分自身は、小学校の時代から通して取っていたクラブなどとして、「美術」関係のものをずっと取っていたので、正直、乳首とアダルトを直線的に結びつける感覚が全く理解できません。当時、「表現の自由」の議論をしていた時に、真っ先に、「乳首を削る」という発想をした人の方が、頭がおかしい人だったのではないか?と思います。)
現実問題として、「表現の自由の大幅規制」をした後の時代の方が、「マネキンのような乳首の無い表現」を見て育った世代が、「人間の女性を、マネキンのような物としか扱わない」悪い傾向が出てしまって、凶悪な事件が増えたり、ドメスティックバイオレンスのような、「人間を物としてしか扱えない世代」が出てしまう悪い時代になってしまいました。
このような暗い歴史があって、「表現の自由の大幅規制」以降の時代には、それでも、少年まんがなどの会社は売らないといけないので、そこで考え出された手法が、現在、私達が言っている方の「萌え系」という文化なのです。
この新しい「萌え系」の原因は、「表現の自由の大幅規制以降の時代に、乳首などの表現の大幅な規制が成された中の範疇だけで、さらに、男の子がドキドキするものを作らないといけないわけで、結局、考え出された手法は、”女の子のポーズやしぐさなどだけで、萌えさせるという手法”で、不自然で過剰な媚ポーズなどをとらせたので、要するに、現在の言い方でいえば、「あざとい」と言われるポーズやしぐさなどです。」
これは、むしろ良い方に転んで、「塞翁が馬」や、「怪我の功名」的な展開となって、現在の「萌え」の文化として定着したわけです。
個人的には、「乳首を削ったマネキンのような表現は、かえって不気味で気持ち悪い」ので、「美術の鉄則に従って、”通常、この世にある自然な状態のままを、きちんと表現できる事”を、「表現の自由」のガイドラインとするべきだと考えています。
ここを間違ってしまうと、現在の世の中のように、「乳首を削ったマネキンのような映像を長く見せ続けられた世代」が、「女性をマネキンのようにしか扱わない」とか、現在起きている事件のように、「ドメスティックバイオレンス」のように、人間をマネキンのようにしか扱わない事件が多発するなどの異常事態が発生するわけです。
正常なフランスなどの文化を大切にする国で、「西洋絵画や彫像で、乳首が描かれていたからといって、その国の人が頭がおかしくなったか?」と考えてみればわかる通り、そうではなくて、むしろ逆で、「人間愛を大切にする国」になっています。
美術史の中で、ヨーロッパの人にとっては、「女性の乳首は、聖母マリアが、キリストに与える大切な授乳」のイメージがあって、「乳首を描かない事」の方が大変な神学的な罰のイメージだというわけです。(ヨーロッパの人の授乳や乳首のイメージでは、「ラファエロの小椅子の聖母」のような「慈愛のイメージ」で見ています)
これは、哺乳動物の特徴であるものが、乳首なので、「乳首を見ると子供は安心する」などの慈愛の象徴的なシンボルという風に子供からは見えるからです。
こういったような事を、「美術に徹して判断する」というわけで、「表現の自由」のラインとして見るべきなのは、「美術に徹するべき」なのです。
ですから、「表現の自由」のライン分けは、「美術に徹するべき」であって、「美術と同等にする」のが最も適切です。
現在では、テレビ初期の時代とは違って、無理に、ジャンル分けして、ネタを搾り出さなくても、高度経済成長期と、日本の高学識化社会の中で、「ラノベ」や、「まんが原作」が大量に出る時代になったので、ジャンル分けにこだわらずに、好きにストーリーを組めるようになったというわけです。
そういったわけで、実の所問題なのは、「日本のアニメ、ゲーム、ラノベ、まんがなど」は、日本の高学識化社会は凄まじいので、実際の所、「海外版のローカライズ翻訳スタッフ」がえらい苦労をしていて、「アニメや、まんがなど、子供向きなのに、大学院クラス以上の、宇宙科学、天文学、物理学などありとあらゆる学問の、本物の専門用語を大量に使っている」という「恐ろしい子」な事をしているのが、「日本のアニメ、ゲーム、ラノベ、まんがなどの、しろうとの同人も含めての文化」という恐ろしい事が起こっているわけです。
もっと、海外のローカライズ翻訳スタッフを困らせるように、マニアのこだわりの専門用語を多用したアニメをたくさん作った方がいいです。
何事も、全力でいかない事には、昔の伝説級となった作品を越える事はできないというわけです。
(空気感の違いからの深い感情表現が可能という映像制作手法)
最近、自分が衝撃を受けたアニメが、「甲鉄城のカバネリ」というフジテレビが、ノイタミナの看板をかけて作った力作のアニメで、これが、ちょうどいい「4K、8K映像時代の幕開け」の雰囲気にちょうどいいので、「空気感の違いから、深い感情表現を掘り起こして伝えられる映像表現」の説明にちょうどいいので、これについて書いていきます。
「甲鉄城のカバネリ」自体は、現行のアニメなので、まだ、「4K映像」ではないのですが、今までのアニメと1番違う事は、「女性キャラクターの顔や髪の毛などを、もの凄く描き込んでいる」事で、どうやって、こんなに描き込んでいるのに、アニメーションしているのか不思議ですが、デジタル時代になったので、昔のセル画アニメとは違った技術の事ができるようになったみたいです。
自分が、今までに見てきたアニメで、他よりも郡を抜いて、1段桁違いだと感じたアニメは、世界中に衝撃を与えた映画の「攻殻機動隊 ghost in the shell」がありますが、ひさびさに、「甲鉄城のカバネリ」は、それに匹敵する位の衝撃を受けたアニメで、「4K、8K映像時代の幕開け」を予感させるものでした。
(「甲鉄城のカバネリ」の深い感情表現が可能な映像制作手法)
自分が、「空気感の違い」まで映像表現から現行でも見分けられるのにはわけがあって、自分は、昔、単品コンポを持っていた位のオーディオマニアだったので、「ケーブルなどのノイズ取り」を徹底的にやっているからです。
現行のテレビ放送映像でも、ノイズ対策をきちんとやれば、「空気感の違い」がわかる位の映像にする事ができます。
(テレビ映像のノイズ対策)
(1) 無線LANケーブルと、テレビアンテナケーブルは、できるだけ離す
(2) 無線LANルーターなどは、電源自体を完全にOFFにする
現在のデジタル時代になってからの映像のノイズ対策で、1番効果が大きいのは、「無線LANルーターなどは、電源自体を完全にOFFにする」で、「無線LAN」関係は、かなりノイズが大きいです。
(3) 家中で、テレビ試聴に使うアンテナ線から入る信号は、同時に1つしか使わない
これは、あまり日常の現実的ではない手法なのですが、「信号を1本のみに独占する」と、テレビ映像は、かなり綺麗になります。
アンテナ線は、「分岐させるほど、信号の品質が劣化します」
これは、ブルーレイレコーダーなどで、「裏録できない」、「2つの番組を同時に録画できない」、「居間と寝室で同時にテレビが見れない」という意味なので、ほとんど一般の日常では使えない方法です。
自分は、ここら辺の「ノイズ対策」を徹底してやっているので、「細かい映像表現の違い」まで見えるというわけで、よくわかるわけです。
(「甲鉄城のカバネリ」の深い感情表現が可能な映像制作手法)
・特に、女性キャラクターの顔や髪の毛などを、非常に高繊細に描き込んでいるので、「若い女性のみずみずしい肌」と「屍」との対比効果から、映像効果が倍増する!
・深い日本の美の表現
海外の人が、日本のアニメなどを見て評価しているポイントとしては、「日本独特の美学表現」というものがあります。
例えば、日本のアニメだと、「桜の花びらが舞い散るシーン」は、ごく日常的に普通な情景なのですが、「外国人は、苦労してまで、そんな情景のシーンを作らない」
こういう背景のシーンだけで、「心情が入る」というわけで、海外から高く評価されています。
「京都アニメーション」の作品だと、東京のアニメスタジオでは、なかなかやらない「京都の人らしい情緒感」を背景で描いていたりして、よ〜く見ていると、「京都アニメーション」の作品だと、「桜の花びらが舞い散るシーンの、さらに下の川の水の上に、桜の花びらが浮かんでいる所に情緒感を出す」などの、「京都の人らしい情緒感」があったりして、海外の人は、けっこう、こういった「情緒感」をよく見ています。
「甲鉄城のカバネリ」の7話では、「友禅流し」に似たような表現があって、「着物の洗濯物を干しているシーン」なわけですが、「ああ、そういえば、日本の古い美意識に、友禅流しがあったなぁ」と思い出した所です。
「友禅流し」というのは、着物の「友禅染め」をした布を、川の水の中にたなびかせながら、のりなどを洗い落とす作業なのですが、「川の上の橋の上」などから見ると、独特の日本の美意識や情緒感があるわけです。
江戸時代などの古い時代の日本の美意識では、このように、「綺麗な着物の布を見せるようにして、たなびかせたりするような美意識」があったわけですが、最近の洋服の文化で、すっかり忘れてしまった美意識だなぁと思ったわけです。
・「散った花びら」に対する日本と海外の感覚の違い
「甲鉄城のカバネリ」のエンディングでは、「静かに流れる川の水の上に、散った花びらが流れていく」シーンがあって、心が打たれる。
しかし、「散った花びら」に対する日本と海外の感覚や情緒感の違いは、かなり大きくて、イタリアや、ヨーロッパでは、「古代ローマの花の女神フローラの祭」があるので、「花びらを撒き散らす」のは、「華やかなイメージ」です。
一方、日本人は、「散った花びら」は、「命が散る」イメージが強くて、この理由は、同じように日本の神話の桜の女神の「コノハナノサクヤヒメ」の話が原因です。(「はかなく散る命」のイメージ)
ですから、「甲鉄城のカバネリ」のエンディングの、「静かに流れる川の水の上に、散った花びらが流れていく」シーンの情緒感は、日本人だと、とてもよくわかって、「散った花びら」が、水の流れに沿って、天に昇るように、画面の上の方に流れていきますが、「自然界の川の水は、何事も無かったかのように静かに流れているだけ」という、独特の情緒感が心を打つというわけです。
日本人独特の情緒感や美意識は、わざわざ、海外の人にわかるように映像を作る必要は無くて、そうすると、くどくなってしまって「情緒感が消えてしまう」ので、わかる人だけわかればいい、興味がある外国人は調べます。
今回、「甲鉄城のカバネリ」を例にして、「4K、8K映像時代の幕開け」を予感させる「4K、8Kテレビ時代の映像表現」の新しい潮流の「空気感の違いからの深い感情表現が可能になる」という事の自分が書いている情緒感や空気感や、「深い感情表現が可能」という内容の雰囲気がわかると思います。
映像技術的には、最近では、「3DCG」技術の進歩で、パーティクルや、エフェクターなどが使える時代になったので、「空気感の違い」は、「4K、8K映像時代」には、技術的には何とかなりそうです。
やっかいなのは、パーティクルや、エフェクターを多用すると、デジタル映像は、ノイズが酷くなってしまう場合があるので、調整がやっかいな事です。
|
評価:
---
アニプレックス
¥ 14,040
(2016-08-24)
|
|
評価:
---
バンダイビジュアル
¥ 9,677
(2012-02-24)
|