前に、ホラーゲームの考察で、「クリエイターは視聴者に感情を作れるのか?」と書いたわけですが、
何か、ものを見せたり音響効果だけで、視聴者に感情を抱かせる事が簡単な感情の順番で書くと、
(視聴者に感情を抱かせる事が簡単な感情の順)
・不愉快
・怒らせる
-----(「不愉快、怒らせる」は、しろうとでも小学生でも誰でも作れる感情。「楽しい、笑わせる、恋愛感情」は、かなり簡単に引き起こせる感情で、少し小説家などの技術がいる)
・楽しい
・笑わせる
・恋愛感情
-----(ここから下は少し技巧がいる)
・せつない
・むなしい
・泣かせる
・恐怖
のような感じで、自分は、映画やドラマなんかを見て泣いたり恐怖で絶叫したりという経験がまったく無いので、なぜかなぁ?と考えた結果、少しわかってきた事があるので、その事について書いていきます。
(能動的視聴者と受動的視聴者)
まず、現代においては、中世ヨーロッパなどの戯曲の多く書かれた時代と大幅に違う事は、「能動的視聴者と受動的視聴者がいる」という事なのです。
「能動的視聴者」というのは、いわゆるバーチャルな体験をするタイプの技術手法が技術の進歩によってできるようになった事で、いわゆる「テレビゲーム」のように、自分自身が作中で自由に動けるという戯曲が作れるように近代文明が変わった事です。
自分の場合には、ヘビーゲーマーなので、「能動的視聴者」なので、「テレビゲーム」に慣れている視聴者の場合には、「作中で自分自身の意思で自由に動ける」ので、ホラー映画を見たとしても、自分自身で回避できる事を知っているから怖くないわけです。
一方で、「テレビゲーム」の場合には、ホラー作品の中に入り込んでいる影響もあるので、場面によっては、受動的な映画よりも、さらに怖い体験を感じるわけですが、同時に、「自分自身で回避できる事を知っている」のがゲーマーなので、怖くても乗り切れてしまう感じです。
よく女性や老人や外人が、新作映画上映会を見て、ボロボロに泣きながら出てくるのは、ある程度プロモーションや「サクラ」はあるものの、「テレビゲーム」をまったくしない人達にとっては、戯曲は全部「受動的視聴者」の方になって、「ただ受け取るだけしかできないで強要されている視聴者」は、テレビゲームのように、怖い、泣きたいシーンで、「自分自身で行動を変えて回避できる事を知っている」わけでもなく、いわば、拷問椅子に縛り付けられたまま受動的に受け取るだけの視聴者なので、泣くし、怖いわけです。
ゲームの制作スタイルにしても、古い日本のドラゴンクエストや、ファイナルファンタジーのように「ストーリードリブン」型と呼ばれる「シナリオライターの想定したレールの上に沿って進むだけ」の古いゲームでは、半分位は、中世ヨーロッパの戯曲のように「受動的視聴者」となんら変わらず、視聴者は、自らの意思を持って動く事が禁じられた拷問椅子に座らされた状態とあまり変わりありません。
そのような感じの事がわかったので、自分は、映画やドラマなんかを見て泣いたり恐怖で絶叫したりという経験がまったく無いという事が理解できたわけです。
あとは、自分自身が、1度でも何か物を作って、「クリエイター側の立場を経験している」と、ホラーとかを見ても、「この演出は、どうやったら作れそうなのか?」といった技術的課題に興味がそれているので、あまり怖く感じないようです。
クリエイターが意図していなくても、創作した物が視聴者にどのような感情を引き起こさせるか?は別の話で、なかなか作るのが難しい感情の「むなしさ」を、最近のテレビゲームで感じたのは、「A列車で行こう3D NEO(3DS)」が500円セールをやった時に、ゲームを開始すると、可愛い秘書のお姉さんが出てきて、いろいろとチュートリアルなどのサポートをしてくれますが、大人になってからゲームをすると、現実世界との差がわかってしまうので、このゲームの経営者は、数億円とか稼ぐようになるのに、この秘書と結婚したり子作りしたりできないという経営者としてかなりむなしい体験をします。
よく女性や老人や外人が、新作映画上映会を見て、ボロボロに泣くというのも、こういったように、「現実世界での経験からくる感情がある」から泣くのであって、作品だけで泣く事はかなり少ない気がします。
「テレビゲーム」が「能動的視聴者」であるという事は、けっこう人間のメンタル的に鍛えられたり、緊急災害時に冷静に行動できたりとメリットも大きいようで、ゲーマーは、パニック耐性が高かったり、緊急災害時に物事を解決しようと積極的に動けるようです。
テレビゲームをまったくしない人達は、「受動的視聴者」で現実に問題が起きても、頭があまり働かずに、ただ受け身で流されるように生きていくだけしかないようです。
特に、プレイステーション3以降辺りからは、3DCGの表現能力が現実のようになってきた影響で、これ以降は、「テレビゲーム」というよりも、「シミュレーター」の方に近いので、昔言われた「デジタルデバイド(digital divide)」問題と同様にして、「IT技術を持っている人々と持たない人々で格差が広がる」わけですが、そういったたぐいの問題が、「シミュレーター」のようになっている現代の「テレビゲーム」を遊んだ人々と遊ばない人々の間に、同様の格差が起きているようです。
もう少しして宇宙時代が到来すると、「テレビゲーム」は「シミュレーター」として必須技術になっていく事でしょう。
eスポーツの是非ですが、仮に、人類が火星移住するなどの時代になった時には、「長期間、地球での文明を忘れないように、eスポーツのテレビゲームによる野球やサッカーなどの広い空間の必要なスポーツの知恵を伝授していくのに必須技術となる」事でしょう。
クリエイターにとって、「能動的視聴者と受動的視聴者がいる」という事は、けっこう重要な事のようです。