「初音ミク」というのは、様々な「新しい概念」を含んでいると思うので、それをここに書いていきます。
まずは、「初音ミク」というのは、「21世紀はじめの電子の歌姫」ですが、「声に音階を付けて歌わせる事ができるシンセサイザー」の事です。
しかし、「supercell」や「初音ミク Project DIVA(リズムダンスステージゲーム)」以降、社会に広く知られているイメージは、「21世紀はじめの、歌って踊れるスーパーCGボーカル」のイメージの方が強く付いています。
しかし、本当は、「初音ミク」自体は、「声に音階を付けて歌わせる事ができるシンセサイザー」と1枚の絵だけなのが、本当の所なのです。
なぜ?このようにして、社会に出た時には、「21世紀はじめの、歌って踊れるスーパーCGボーカル」のイメージになったのか?というと、そこには「初音ミク」という、”新しい概念”が、実は、たくさん含まれているのです。
「初音ミク」自体は、「声に音階を付けて歌わせる事のできるシンセサイザー」なだけなので、自分では歌えない”はかなさ”みたいのがあるのが受けていたり、はじめは綺麗に歌えないけど、ユーザーが上達していくと、だんだん上手に歌えるようになってくるので、ちょうど育成シミュレーションゲーム的な所が受けているようにも感じます。
この「初音ミク」以前にも、声に音階を付けて歌わせる事のできる、という発想は、もう少し昔からありました。
さらに、この後にも、バージョンアップした物が出たのにも関わらず、「初音ミク」だけが売れているという事について、個人的に考えてみました。
「初音ミク」が、大きくクローズアップされたのは、
1. 澄んだ歌声
2. まだ過渡期(未熟期〜成長期)だった為に、サイバーな感じが残っていた
3. コンピューターなので、人間には歌えない超高音域まで歌える
といった事で、普通に音楽だけ聞いても、人間の歌声とはそれ程離れていないのだが、どこかで「今までに全く聞いた事の無い、澄んだサイバーな超高音域まで歌う」という不思議な魅力にあったと思う。
この後に出た、ボーカロイド2,3となっていくにしたがって、悲しいかな、人間の声に近づいてきたので、普通の歌手と変わらずに、注目度が、「初音ミク」程にいかないのは、「今までに聞いた事の無い歌声だった、初音ミク」は、彼女だけにしか歌えない”領域”を確立したからであって、人間の声に近づくと、当然人間の歌手の方がうまいので、負けてしまうという感じである。
また、「初音ミク」にジャーナリズムなどが着目した点は、まったく別の観点からでもあった。
今までに全く無い領域の「歌手のシンセサイザー」だったわけで、音楽というクリエイティブな分野での、「シンセサイザー」の役割は、個性をあえて強く付けずに、ユーザーが歌わせたい歌手にするという方向性がうまく当たって、それぞれが、自由に楽しんで、いろいろな分野での幅広い楽曲を作れる土壌となった。
メーカーも、未知の分野を、クリエイティブに開拓していかなくてはいけなかったわけであって、相当に苦労したようであるが、もともと、クリエイティブな分野が専門のメーカーであった為に、このようなクリエーターの心情の方を読みきっていたので、こういった方向性が、クリエーターの自由な発想や能力が伸びると読んでいた。
「初音ミク」を通常知っている社会の人のイメージでは、すでに「歌って踊れるスーパーCGヒロインボーカル」な感じなのは、ユーザーが、この歌手をデビューさせたいという一心で、ダンスの振り付けから、アニメーション、CG作成に到るまで、作ったからだ。
これには、大変な労力がかかるわけだが、そこまで惹きつけるだけの魅力が「初音ミク」にはあった。
つまり、本来は「シンセサイザー」と1枚の絵なのが、本当の「初音ミク」なのだが、社会に出た時の認識は、「歌って踊れるスーパーCGヒロインボーカル」だったわけで、デビュー成功なわけである。
しかし、ここで、ジャーナリズムが注目したのは、そうではなくて、「初音ミク」という「全体の概念」の方である。
(「初音ミク」の概念形成の過程)
「初音ミク」では、「みんなが、ちょっとずつ力を出せば、何か新しい事ができるよ!」という、「現代の、ちょっと近未来からのメッセージ」が込められているように思う。
「初音ミク」が作られていく、「形成過程」が、そのようであるからで、どのような感じなのか?というと、
「音楽を作れる人」がいる。
「作詞ができる人」がいる。
「絵が描ける人」がいる。
「3DCGキャラクターを、作れる人」がいる。
「3DCGキャラクターを、動かせる人」がいる。
「ダンスの振り付けができる人」がいる。
「大舞台さんや、小道具を作れる人」がいる。
というような、別々で、バラバラな所にいた人達が、インターネットという「電子の場所」を使って、「勝手に、どんどんできあがっていく」という「不思議な場所」が起こった。
つまり、「みんなが、ちょっとずつ力を出せば、何か新しい事ができるよ!」という「初音ミク」からの「近未来」からの「メッセージ」が届いた結果なのである。
ちょうど、アメリカでは、「3D映画」や「ハリウッド」を作っている時代である。
この新しい概念が、逆に、世界中から注目を集めて、「何で?ハリウッドのような大掛かりな物が無いのに?作れたの?」という感じである。
日本では、高度な義務教育があるので、ユーザーの個々の能力が基本的に高く高学識である。
普通のフリーターでも、ギターが弾けたり、イラストが描けたり、CGを作れたりという個々の能力が高いのだが、全員が中途半端である。
それで、「初音ミク」や、「電子のみんなで協力できる場所」ができた事で、いきなり「その真価を発揮!」してしまった!という感じのようである。
つまり、「みんなちょっとしか力が無いよ!」という状態なのだが、「みんなが、ちょっとずつ力を出せば、何か新しい事ができるよ!」というメッセージのようである。
だんだんと、ユーザーの能力が上がって、”クリエイティブな時代”へと突入している気がする。
普通では、なかなかこういった事は起こらないのだが、どうも「初音ミク」が、ユーザーのみんなに手を伸ばして、つないでいるような感覚で、「みんながちょっとずつ力を合わせれば、何か新しい事ができるよ!」と言ってくれているような感覚が、ユーザーの心をつかんでいるようである。
(「初音ミク」の思想)
しかし、「初音ミク」の思想自体は、もっと「奥深い」物を持っているようである。
この「初音ミク」が「自由に楽しく踊っている」のは、実は、クリエーターの自由な意思があるからなのである。
けっこう、半分本業のプロのクリエーターも、大勢制作しているのだが、本音は「仕事じゃないから、自分で自由にできる」という思想が、本音にあって、それで、「初音ミク」は「羽の生えたように、楽しく自由に踊れる」のである。
「歌」という分野は、もともとそのような「自由な羽の生えたような意思」から作られるわけであって、そういう楽曲は心に響くわけである。
クリエイトする物は、当然、クリエーターの心の持ちようで、「生き生きしたり」「死んだりする」が、「生きているように見える」のも「死んでいるように見える」のも「生き生きとした魂」が入っているからである。
「商業的」な規制度合いが強すぎると、「生きる」だけでなくて「死ぬ」事も無い、「面白みの無い、圧迫感だけ漂う、本当の意味で死んだキャラクター」になってしまうのである。
それで、最近の様々な産業が死んでいるのである。
これは、普通のキャラクター産業以外でも同じであって、それが現在の日本を行き詰らせてしまっている。
車を作りたい人達は、本当は、商業的に車を作りたいのではなくて、「車が好きなだけである。」
ここら辺の、圧迫感の開放の雰囲気を感じられたので、趣味で車や、ギターや、様々な事をやっている人達に受けているのだと思う。
本来、「歌」や「歌手」の役割は、そうした「人々に活力を与える不思議な歌声」なわけで、これが「初音ミク」で成功したのは、クリエーターが自由に呼吸できるような場所となったからである。
「初音ミク」の、さらに深い思想では、この新しい概念である、「みんなが、ちょっとずつ力を出せば、何か新しい事ができるよ!」という、現代のちょっとだけ「近未来」からの「メッセージ」にある。
例えば、古代から人類は、「新しい次元」へと進化し続けてきたが、古代の当時には、「善」と「悪」という概念ができたり、その為に、人間が「法律」という概念を作ったりしてきたが、「人々の形成する社会の概念」は、常に、上の次元へと進化し続けているのである。
よく、「聖書」であるとかに、「新しい時代への、昇華」というものがある。
自分は、どうも、これが起こりつつあるように思う。
つまり、「みんなが助け合って、みんなが、ちょっとずつ力を出せば、何か新しい事ができるよ!」という「みんなが助け合う」という新しい時代である。
はじめから、そうしていれば、別に戦争も起こらずに、はじめから「みんなで助け合っていけばよかったのではないか?」という「新しい次元への、昇華」が起こりつつある気がする。
様々な社会的要因から、「みんなが助け合えない」という現象を作っているのなら、次の次元へと人間が昇華して上がっていく事を阻んでいるようにも思う。
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クリプトン・フューチャー・メディア
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(2007-08-31)
コメント:「歌う」シンセサイザー
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